「震災と僕とアメリカ人たち」を書き終えてー2013年3月11日ー

昨日までの暖かさが嘘のように、今日は寒くなりました。

この時期になり、震災に関連する様々なドキュメンタリー番組を見ます。
まだまだ復興していない現状を知り、胸を痛めています。
また復興のために知恵をしぼり、努力している人たちの姿を見て刺激を受けています。

2年前、テッドたちと共に過ごした日々のことを、今ようやく書き終えることができました。
あの体験で得たもの。
自分の無力さを思い知らされたことで起こった自分の人生に対する思いや考え方の変化。
生きていくために必要な力や知恵をつけなければいけないと思った。
そして無力ながら、それでも自分のできることを精一杯やろうという思い。
これらの思いを胸にいずれ復興につながる何かを起こしたと思っています。

今年から、青森県中津軽郡西目屋村の定住者促進事業を西目屋村に住んで関わっていくことにしました。核燃料再処理場がある六ヶ所村を有する県です。
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# by nagatashikohjo | 2013-03-11 12:04 | ヤマモトシコージョ

震災と僕とアメリカ人たちー3月22日ーコノ下、死体アリ

耐えた。

寒くて長い夜が明けて、朝がきた。

午前中は、石巻市の状況を知るために外を歩くことした。
津波被害を受けた石巻市の市街には、海水、ヘドロ、そして魚の腐った匂いがした。
映画のセットにいるような、現実とかけ離れた光景だった。
車が3台重なっていた。電信柱はほとんど倒れていた。
道路の上に漁船が乗っていた。
「がんばろう!石巻!」
そう書かれた横断幕がよく目についた。
店の中に入った泥を掃き出している人がいた。
「がんばろー!!」と大声で叫びガッツポーズをしてくるおばちゃんの顔は笑顔だった。
それを見て驚いた。
高校生のときにアルバイトしていた焼鳥屋の石巻店があった。
看板は泥だらけだったが、「扇屋」という文字がかろうじて読めた。
露店で生活用品を売っている若い人たちがいた。
急な坂道を歩いていると、おじさんが大声で声かけた。
「お父さん、お母さんは無事かぁ??しっかりしろよぉ!!」
道行く若者を見つけては、そう言って励ましているのだろう。
現に、自分の身の回りには親を亡くした同世代の人たちがたくさんいることを実感した。
被災者と自分。
明らかに立場の違う両者。
自分はもうすぐまた東京に戻って普通の生活に戻る。
暖かい部屋で、暖かい布団の中で寝る。
食べるものも十分にある。
電話をすれば両親ともはなせる。
でもここにいる彼らは・・・・
この違いはなんだ?どうして彼らだけ。
考えても答えはないこの疑問が頭のなかをかけめぐっていた。

昼。
配給のおにぎりが市役所の前にきたという情報が入った。
市役所の前には人だかりができていた。
もうすぐ帰る僕は、おにぎりを食べなかった。

Sくんとテッドは石巻災害対策本部へ行き、市長を含めて話し合いをすることとなった。
医者はどこかへ出かけて行った。
宣教師がもっと石巻を見たいといい彼についてまた外にでることにした。

津波で家が基礎から流された地域を一望できる公園を目指した。
宣教師は外を歩きながら、お昼ごはん代わりにカロリーメイトのようなお菓子を食べ始めた。
僕にも1本くれたが、被災者の前で食べることに抵抗があったのでポケットにしまった。
お菓子を食べ終わったあと、宣教師はそのゴミをその場に捨てた。
悲しかった。
たしかにそのあたりは瓦礫やへどろだらけだった。でも、だからといってゴミをポイ捨てするのはおかしいと思った。
この宣教師は、未曾有の災害が起き、最後の審判は近いと心を乱している各国のキリスト教信者たちを落ち着かせるために、現場を見に来たと言っていた。
こんな人に他人を心から思いやることなんてできるわけない。最低だと思った。
「今すぐそのゴミを拾え!!!!」
そう言ってやりたかったのに、言えなかった。
自分の心の弱さに失望した。
そんな自分も最低だと思った。
あのときそう言えなかったことが、今の今までわだかまりとなっているのだ。

丘の上にあるその公園に行くために、急な坂道を登っていった。
その途中でお年寄りを見かけた。
物資を取りに下まで降りて、またこの坂をあがるのは大変だ。
そう言っていた。

少し息を切らしながら、公園についた。

何も言葉が出なかった。
跡形もなく流された家々。自衛隊の車。
「コノ下、死体アリ。」と大きく白い文字で書かれた屋根。
今は静かな海。
その光景を見て泣いた。

公園には多くの人がいた。
「おおぉぉ!!お前生きてたのか!?」と友達との再会を喜び抱き合うおじさんたちの姿を見た。
そういうものを見る度に、自分が今いる場所を改めて知る。
そのくらいに、見るもの全てが現実離れしていて、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。

市役所に戻った。
Sくんとテッドは話し合いを終えていた。
やはり、ここにもガソリンはなく、無料配布は難しいとのことだった。
しかし、灯油なら十分な量を確保でき、灯油の無料配布を始めることができることになったそうだ。
まだまだ寒い石巻市では、とてもありがたい支援だという。
こうしてテッドの支援活動は始めることができるようになった。
灯油から始めて、ガソリンが手に入るようになったら、ガソリンの配布を始めると言っていた。
この場での自分の役目は終えたような気がした。

レンタカーの返却日が次の日にせまっていた。
ここに残っても食料を無駄に食べてしまうだけだと思い、その日の午後に東京へ向けて戻ることにした。
ついでに次の日に国外での講演があるために成田空港にいかなければいけない宣教師を成田空港近くのホテルへ送ることとなった。

テッドと別れるときがきた。
テッドはポケットからまるまった米ドル札を何枚か出して僕に渡した。

テッド「この額で満足か?」
  僕「うん。」

ホテルでテッドと会い、テッドの頼み事を受けたときから僕はテッドに雇われていた。
お金なんかいらない。と断ることもできたが、その一言は最後まで出なかった。
僕は未だに、お金をもらったことに対して自分の中で納得できていない。
被災地支援のために何かしたいとずっと思っていた。
3月11日が過ぎて、客のいないホテルでのラウンジで流れる被災地の映像を見ながら、うずうずしていた。
そんなときにあらわれたテッド。
お金をあげるから手伝ってほしいといわれたとき、被災者のために何かができることがとても嬉しかった。
だが、お金を断ることはしなかった。
お金をもらったことに罪悪感を抱いていれば、お金をもらって支援する行為が汚い行為だと言っているようなものだ。
そうではない。
だけど、何かがひっかかっている。
テッドからもらった米ドル札はまだ使えずに財布の中にしまっている。

テッド「ソーイチローに出会っていなかったら何も始まらなかった。君は僕をここまで連れてきてくれた。君のおかげで支援も始められることになった。十分に役目を果たしてくれた。ありがとう。」

最後にテッドはそう言った。

宣教師を助手席に乗せて、Wing Roadは石巻を出発した。
成田空港近くの東横インに着いたのがけっこう遅い時間になったため、僕もそこで1泊して次の日、上野のレンタカーショップへいくことにした。

翌朝、部屋でつけていたテレビでやっていた朝の情報番組では、イラク戦争の映像が流れていた。
宣教師とも別れ、1人になった。
成田から上野までを下道で帰った。
渋滞に巻き込まれひどく時間がかかった。
上野警察署で、特別通行許可証を返却し、レンタカーショップに車を返した。
何事もなかったかのように、電車に乗って家に着いた。
東京にいると、昨日のことがウソのことのように思えた。
違う世界へ行ってきたかのような錯覚を覚えた。

その日の東京は雨だった。
放射性物質が含まれた雨だと騒がれていた時期に、ずぶ濡れになって帰ってきた。
傘を忘れて出かけてしまった。



(その後、石巻日日新聞、毎日新聞にテッドの支援の記事がのっていました。
その記事で「これでようやく暖がとれる」というおじいさんからのコメントが載せられていました。
それを読んで、胸のあたりでつっかえていたものがとれて、血が循環し始めたような、ホッとした感覚を覚えました。)
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# by nagatashikohjo | 2013-03-09 23:33 | ヤマモトシコージョ

震災と僕とアメリカ人たちー3月21日ーあたたかいミートソーススパゲティー

まったく清々しくない朝だった。
段ボールを下にひいて寝たせいで、背中と腰が痛い。

その日は復興支援ボランティアセンターに行く予定になっていた。
テッド、トッド、宣教師、医者そしてYさんとともに地下鉄で向かった。
着いて通された場所は体育館のような大きな会場だった。
復興支援のボランティアをするときには、ここで登録をし、必要に応じてセンターから具体的な支援の内容を指示されるという仕組みになっていた。
この仕組みを無視して自分の判断で被災地に行き何もできずに帰ってくる人や準備不足のために現地で支援物資の食料を食べ、かえって迷惑になるという人が続出していた。
「ボランティアはまだ行かないで」と言った趣旨CMがたびたび全国で流されていた記憶がある。

僕たちもまずはそのシステムにのっとり、登録用紙なるものに必要事項を記入した。
しかし、そこには長蛇の列。
テッドはこんなにも待てないという面持ちだった。
会場で人の整理をしているスタッフに僕たちのことを説明して、どこか別の部署に通してもらおうとテッドが言った。
日本人気質の僕には、規則を守らないテッドのやり方に少々気が乗らなかったが、ここは従うことにした。
テッドはこれまで大きな災害が起きたときに被災地でガソリンを無料配布する活動をするNGO団体の人で、これまでハイチ地震やハリケーン・カトリーナで被災した地で活動を行ってきた。
そして日本での大震災を聞き、ガソリンを無料配布しにやってきた。
だいたいこのような内容をスタッフのおじさんに説明した。
すると、この支援の内容を重要なものと感じてくれたのか、上階へと通してくれることとなった。
トッドのことについては何も説明してなかったが、トッドも僕たちと一緒についてくることができた。
宣教師と医者もついてきた。
エレベーターで連れて行かれたとその部屋にもけっこうな人数の人がいた。
そこは、ボランティアセンターの事務所のようなところだった。
蛍光色黄色いウインドブレーカーを来たスタッフたちが、慌ただしく動きまわっていた。
僕たちを連れてきてくれたおじさんは、ここで待ってくださいと告げ、下におりていった。
僕たちはそこにあったテーブル席に腰を下ろした。
少したって、センターの上層部のおじさんらしき人が現れた。
そのおじさんにも、テッドがここへ来た理由を説明した。
そしてここで初めて具体的にテッドが考えている支援の内容を他人に説明した。

僕「配布するためのガソリンはもっていませんが、彼(テッド)の支援団体の支援者から募った支援金がたくさんあります。それでガソリンスタンドから大量にガソリンを買って、被災してお金に困っている人たちが無料でガソリンを補充できるようにしたい」

おじさん「それは大変ありがたい計画ですし、今ガソリンがなくてそれを必要としている人がたくさんいます。ですが、その支援を実行するのは難しいと思います。そもそもが配布するためのガソリンが十分にないのです。」

ガソリン無料配布の支援を実行するのはそう簡単ではなかった。
話はそれ以上進まなかった。

今度はトッドの事情を通訳する番となった。
トッドもアメリカの災害支援団体に所属しており、彼のチームはこの日の夜にバスで仙台に着くことになっていた。
彼のチームには医者、ナース、カメラマンなどがいた。
トッドは石巻市に行きたいらしく、石巻の情報、行き方などを聞いた。
多くの情報は得られなかったが、現在石巻へ行くのは困難ということ、甚大な被害により支援が足りていないことが分かった。

テッドの次の作戦に移るために、センターを後にした。
車をとりにYさんの家に戻る途中で昼食を食べることにした。
どこの店も通常営業ができていない状態だった。
材料不足で正規のメニューが出せずにいた。
炊き込みご飯のようなものが食べれるラーメン屋に入った。
ラーメンは売っていなかった。
テッドが錠剤を飲んだ。そういえば、昨日から飲んでいた。
被爆を防ぐ薬だという。
君も飲んだほうがいいとすすめられ飲んだ。
炊き込みご飯のような昼食を食べ、テッドが2人分の1000円を払い店をでた。
2人とも出された水には手をつけなかった。

仙台市内のガソリンスタンドに行き、直談判することにした。
市内でも比較的被害が大きそうなところのガソリンスタンドを手当たりしだいあたった。
交渉するときにはテッドの言うことを的確に訳すことにした。

  僕「ここのガソリンを全て私に買わせてください。そしてこれからここに来る車には無料でガソリンを入れてあげてください。お金がなくて困っている人を助けることができます。」

店の人「とてもありがたいことだと思います。ですが、今ここでそのような支援を行ったら、たくさんの人が押し寄せてパニックになると思います。すみませんが、うちでは協力できません。」

  僕「協力していただければ、この活動が評判になって、後々お客さんが増えると思います。あのときここのガソリンスタンドは助けてくれたなぁって、お客さんが戻ってくると重います。」

パニックになるから協力できない。という答えがほとんどで、その後のガソリンスタンドも断られ続けた。
自分のガソリンスタンドだけが、そのような活動をして目立つというところにもあまり良い印象を抱いていないような気がした。
そのような空気を感じた。

夕方くらいまでガソリンスタンドをひたすらまわり続けた。
その後、仙台市役所に行った。
テッドが支援地として仙台を選んだ理由、それはテッドの故郷カリフォルニア州リバーサイド市と仙台市が姉妹都市だったからだ。
そこで、仙台市の観光課に行けば何か協力してくれるかもしれないというテッドの考えで市役所へと向かった。
観光課の職員達はとても歓迎してくれた。協力する内容が難しいこともあり、何も援助を受けることはできなかったが、支援に来たことに対して喜んでくれている実感を得たことがうれしかった。
「今度は観光で仙台に来てくださいね」と職員の1人に笑顔で言われた。

結局何も進まないまま、Yさんのマンションに戻ってきた。
「日本は今まで支援してきた国とはぜんぜん違う。お金を使うのがこんなに難しいなんて思わなかった。」
疲れきったテッドが口をこぼした。
支援をなかなか受け入れてくれない日本に、少々いら立ちのようなものを感じているような気がした。日本の誰もが支援したい気持ちを持っていた。
何かしたくても何もできない人がほととんどだった。
僕もその一人で、焦りのようなものを感じていた。
しっかりと準備をしたうえで物事を始めるからこそ、スムーズに支援が進む。
だがそれがゆえに、支援が始まるのが遅くなる。
動きながら考えるのか。動く前にしっかり考えるのか。
どちらがいいのだろうと考えさせられた。

しばらくすると、トッドの支援団体の後発隊がYさんのマンションに着いた。
災害支援に熟練したような風格の人たちが次々とバスから降りてきた。
トッドはこれからこのバスで石巻に入ることになった。
トッドのチーム、テッド、宣教師、医者が情報共有をし始めた。
僕はその輪から外れたところにいた。
未だに、この人たちのために何もできていない自分。
災害支援のスキルも知恵もない。
何ひとつ役にたたない自分を情けないと思う気持ちがその輪から遠ざけた。

話し合いもひと段落したところでトッドがチームの集合写真を撮ってくれと、カメラを渡してきた。
僕はそのカメラをうまく手につかむことができず、カメラをコンクリートの地面に落としてまった。
液晶モニターに大きなヒビが入った。
「ほんとにごめん」と言いながら、どこまでも役に立たない自分が悔しく、もう泣き出しそうになった。

トッドと別れるときが来た。

トッド「ソーイチローは、僕らをここまで連れてきてくれた。君がいなければ何も始まらなかった。カメラのことは気にするな。こういう状況のときは自分の想像しないことがたくさん起こるんだ。」

そう言ってトッドはバスで去っていった。


テッド「ソーイチロー、僕たちも石巻市に行こう。運転を頼む。」

さっきの話し合いで、石巻に行くほうがいいと思ったのだろう。
たしかにこのまま仙台にいても何も始まらない気がしていた。

「わかった」と即答したが、すかさずYさんが心配になって声をかけてきた。

Yさん「ほんとにいいの?石巻は危険だよ。私はあの人たち(テッド、トッド)ともう関わりたくない。準備不足のままいきなりやって来て、周りの人に頼りまくって。少し迷惑してるわ。」

僕「ありがとうございます。大丈夫です。僕、行きます。」

僕もYさんと同じことを感じていた。
ここへきてテッドの支援に対する準備不足を実感してきた。
この日、支援への協力をお願いするとき、相手の顔に迷惑がっている様子が見えることがありつらかった。
こんなことやらないほうがいいんじゃないかという考えが何度となく現れた。
でもやらなければいけない。
今彼らを石巻へ送ることができるのは僕しかいない。
自分のやっていることへの疑問を抱きながら、けれどその場で感じていた責任感に従い、僕は石巻に行くことにした。

石巻に行くには少々問題があった。
高速道路を使わなければガソリンが十分ではない。
その高速道路を使うには、警察署から特別な許可が必要。

トッドの支援部隊の通訳として一緒に仙台に来たSくんがこれを解決した。
Sくんとつながりがある石巻市の市議から支援の要請があり、その要請に応えたのがトッドの部隊であるらしい。その要請があったことを話せば警察署で特別通行許可証が手に入れられるとのことだ。
(※ここの記憶は確かではない)

要するにSくんがいればその特別通行許可証が手に入るのだ。
5人乗りのWing Roadは僕、テッド、Sくん、宣教師、医者を乗せて、仙台市の警察署へ向かった。

小さなモニターが天井まである大きな部屋だった。
靴を脱いで、その部屋に入り、必要事項を記入し、2、3質問に答え(Sくんが)、特別通行許可証は手に入った。

そして僕らは津波で甚大な被害を受けた石巻市へと向かった。
テレビで見ていた津波の被害を目の当たりにすることになる。
心臓はバクバクしていた。
心臓がバクバクしていたのは、他にも理由があった。
車がなかなか北上を始めなかった。
またしても道を間違えていた。
右往左往しながら、ようやく北上し始めた。
どれだけガソリンを無駄にしただろうか。それが気になっていた。
その後はSくんが市議と連絡をとりながら、どこのジャンクションに入ればいいとか、そこは通行止めになっているとかを教えてくれた。
道路の状況が極端に悪くなった。
ひび割れに注意しながら、けれど、急いで石巻へ走った。

夜10時頃、石巻河南インターを降りていよいよ石巻市に入った。
テレビでみた風景がそこにあった。
真っ暗な街にポツポツと立っている仮面ライダーなど石ノ森章太郎ゆかりのキャラクター像がさらに異様な雰囲気を際立たせた。
異臭がすごかった。

僕たちは、避難所となっている石巻駅前の市役所へ行った。
ここで寝かせてもらえることになっていた。
そこには、津波被害を受けた人々が避難していた。
みんな疲れきった顔をしていた。
何も声をかけることはできなかった。
声をかけようという考えすら浮かばなかった。
子供たちは、Nintendo DSで遊んでいた。
僕と同じくらいの年の男性が話しかけてきた。

男性「支援にきたの?」
 僕「うん。君は?」
男性「県外に住んでるんだけど、実家のある石巻に両親の安否を確認しにきた。」
  「まだ両親とは連絡がとれていない。」
  「明日は市内を歩くの?気をつけてね。僕みたいに帰れなくなるよ。」 
 僕「ありがとう、気をつける。」

帰れなくなるよ。ってどういう意味だったんだろう。それほど、外を歩くのは危険なんだろうか?
一気に恐くなった。


避難所のなかは静かだった。
室内は暖房が入っていたが、大きな部屋を暖めるほど十分なパワーはなかった。
みんな寒さに耐えていた。

おなかがすいた。
食べるものがない僕にテッドはかばんに入っていたサバイバルフードをくれた。
あたたかいミートソーススパゲティだった。
宣教師と医者は、持参したカロリーメイトらしきものを食べていた。
避難者たちは何を食べているのだろうか。十分な食料はあるのだろうか。
そんなことを考えながら食べていると、なんだか悪いことをしているように思えてきた。

寝場所はもちろん床だった。しかし、寝袋も何もない僕はその寒さをしのぐことは難しいと思った。
車のほうが暖かいと思い、移動することにした。宣教師が裏が銀色になっているサーモシート?を貸してくれた。
あとは、自分が持ってきた意味のない服を毛布代わりにした。
ガソリン不足なので、もちろん暖房はつけられない。
車のなかは思った以上に寒く、寝られなかった。
横になると頭の中がぐるぐる回った。
長くて寒い夜を過ごした。

3日目 終
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# by nagatashikohjo | 2013-03-08 19:41 | ヤマモトシコージョ

■ナガタシコージョのブログです。

スカイツリーと両国国技館のあいだ、東京都墨田区のシェアハウス「ナガタシコージョ」です。
おもに住人の@ngty1rがどうでもいいことばかりを書いていますが、たまにはまじめなことも書く。
はじめようと思ったときに考えたことはここに書いてみました。
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# by nagatashikohjo | 2012-12-31 02:21

えひめから。

ジュースがとどいた!
12本入り。

シブいジャケット。
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# by nagatashikohjo | 2012-08-30 23:58 | 日々


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